2016年08月07日

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想念と言うイメージの中での個々の意思の視点の違いからくる思考のズレを考えてみたい。

下記図はこれまでの数多く描かれて来たイメージとしておなじみであろう。
想念イメージ

全てが想念の中で起きていると思っている状態でも感じ方、捉え方に差が出てきて、納得しにくいと感じているかもしれない。


想念という位置の視点と個々の意思という位置の視点、この差が混乱の元になるのではないだろうか。

大元の想念という位置の視点は、映画製作で言えば監督と原作者という感じで、個々の意思の位置は俳優である。

そして一番厄介なのは、俳優としての個々の意思が「独立した自分」という感覚を持っており、例え想念の中と言えども個別にあり現実世界へ転生して、肉体に入り一生を終えて霊界に帰るというストーリーを過ごしてこようとも、個は個として独立を維持し、想念の中で存在し続けると感じている事。

個々の意思という表現を「魂」といった古典的?な表現に戻すと、想念から分離し魂となる、そして現実世界というフィールドへ生まれ、人生を過ごし、霊界へ帰るもまた現実世界へ転生し、とここをぐるぐる回り、最期は想念の中へ帰っていくといったイメージが一般的に多いのではないだろうか。

ぼんやりした想念の世界から現実世界の人間というプログラムへ融合した時、明確にはっきりした意思を持つ事が出来ると言うとまた誤解が生まれそうなのだが、ドット絵と言えばわかるだろうか?
mario

これはテレビゲームのキャラクターなのだが、普通にテレビ画面で見ればこんな感じで見えるが、近寄ると。。。
mario2

ブロックで構成されたようにドットという点の集合体である事がわかる。

想像を超える遥かに広大な想念の世界では気が付かないが、例えば人間というレベルでは光として受け取れる情報もとても限られている。
denjihatokashikou


多種多様な「波」としての情報もほんのごくわずかしか見る事が出来ない。
広大な想念の世界の中の極々一部、ほんの僅かな一部分だけを拡大したかのような小さな世界という表現だと本当に物質的な書き方であるが、そうした白黒はっきりしたという単純なエリアであるからこそ「はっきりした」という感覚が持てるのではないかと考えている。

それなので想念という広大(物理的表現なのであまりスッキリしないが)な世界の中ではぼんやりしてしまうので気に留まらないかもしれないが、拡大するとメリハリが出てはっきりしてくる。

そんな現実社会という限られた情報の中で個々の意思が自分という認識をはっきり持つのではないだろうか。

そして肉体を離れると広大な想念の世界に融合していくので、よほど肉体の頃に執着した事でもない限り肉体という制限から解き放たれて想念へ帰っていくのではと想像してみる。

よく言われる「集合意識」とか「ハイヤーセルフ」であるとかは、もしかしたら個々の意識そのものではないかと考える。

そしてその集合意識が現実社会へ複数の自分自身を細分化して送り込み、その複数の仲間内でストーリーを組み立てているとも考えられる。

よく守護霊とは自分自身であるという霊能者もおり、様々な時代背景というプラットホームで経験してきた事は集合意識へ全て統合されている為、現実世界で体験した個別の肉体の記憶等は集合意識にある。

ここで一度まとめると、「想念」の中に「集合意識」があり、この集合意識が肉体へ意思を送り込んでいるという構成であろう。

こうした話はこれまでも表現こそ違うが同じような意味で語られている。

新しい発見でも無ければ何でもない。

私自身が気が付いた事は、こうした現象とでも言えばいいのか、宇宙空間も含め全てが想念という実は何も物質的な物は無いのに、あると感じられる世界で、延々と同じような世界が「合わせ鏡」の中のように繰り返されているといいう事。

物理的な思考を持ち出すと、「始まり」は?とか「終わりは?」という疑問も浮かぶが、多分そこは人間の思考では決して解決できない世界なのであろうと思う。

だからそこに「目的」は無く、なんとなく無限ループのように繰り返されている世界がある為、実は「義務」であるとか「学び」であるといった事は何も無いという事。

またそんな世界で個々の意思はそれぞれが現実世界を体験しているので、この私の思想は広がらないであろうし、私が所属する?集合意識の中では少し広がるかもしれない。

現実世界というプラットホームは全ての集合意識で共有されているとは考えにくいので、別の集合意識が展開する世界では全くこの思想は登場すらしていないと思う。

制約無く考えると、もしかしてこのブログを読んでいる人、オリンピックで頑張っている人、サラリーマンで毎日平凡に暮らしている人、などなど・・・全て自分という集合意識かもしれない。

そんな事あるか!あなたとは違う!と言う人も必ずいるだろう。
全て同じでは世界は成り立たない、プラスとマイナス、NとS、光と影、右と左、などなど必ずバランスが取れているのでそれでいいのだ。

そうした全ての人と認識できる人々全てがもしかして「私」と認識している「集合意識」かもしれない。

また、集合意識という中間管理職のような存在は無く、いきなり「想念」かもしれない。

視点の持ち方で認識も変化する。

肉体の一生を終えて肉体を意思が離れると、「個」という区別がいきなり無くなり想念に戻るとすれば人は死んだら終わり。

個々の意思が想念の中で独立を維持し続けるというのであれば、肉体の終わりは単なる通過点であり、自分と言う存在は死なないし消滅も無い。

「集合意識」=「想念」という見方なら構造はいたってシンプル。

しかし、「想念」から「集合意識」が分離し、それぞれの世界を作り出しているのか自然発生しているのか分からないが、そうしているのであればパラレルワールドも有るだろうし、他の次元にいる自分とも出会う事があるかもしれない。

どこに視点を置いて、どの存在の思考で考えるかにより感じ方捉え方人生の生き方等変化してくるのかもしれない。

個々の意思に自分と言う視点を置いて思考し、人生を生きるのであればそれが王道ではないだろおうか。

個々の意思の「私」は「実は違うのでは?」という疑問からこうした思想にまで到達した結果、王道である人生の生き方が出来ない。
もしかしたら集合意識が「王道の生き方を出来ない個」を作り出したのかもしれない。

どちらにせよ子供の頃から入学式、終業式、卒業式、成人式、入社式と儀式的な事に何の意味も感じる事が出来ず、遠くから冷めた気持ちで見ていたという変わり者だ。

私という集合意識が現実世界を続ける限り、個々の意思の私としては別にいつそちらへ帰っても構わないと思っている。で、また次は違うキャラの人間に入り新たな体験をするのかもしれない。

人生が「しんどい」と感じる時は、個々の意思としての肉体の中の自分に「なり切り過ぎ」ているのかもしれない。

かといってバーチャルだと思いすぎると他人の命も軽く感じてしまう。
こんな事を感じるので、あまりこうした思想は広がらない方がいいのかもしれない、と感じつつもブログで公開している矛盾。

こんな矛盾にこの世界は満ち溢れている。

謎があるから謎解きが楽しい、未知の世界があるから冒険家が活躍する。
そんな永遠に解けない謎が想念の世界であろう。

科学者の世界では宇宙の謎が究極であろうと位置付けているが、私は想念の世界の中で作り出されたのが宇宙空間だと思っている。

想念の世界こそ個々の意思の視点から見たら究極の謎ではないだろうか。


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(12:17)

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この記事へのコメント

1. Posted by 無人くん   2016年08月08日 19:59
こんにちは

四季さんの考え方は「想念」が現実世界のシナリオを作り、
それを「個」としての人間が演じているということですよね
前半の例はそれを良く当てはめていると思います。

ただ、前回の「人生は出来レース」に対する疑問の答えは見つかりませんでした。
すべて想念の通りに実現するのなら、
そもそも「個」を区別する必要はないと思われますし、
「個」の中に「自我」が存在するのは邪魔以外の何物でもないですよね。
「自我」が存在するということは、個人の裁量に任されているからだと思うのですがいかがでしょうか?

もし、そうだとすると人生を傍観者として過ごすのはもったいないような気がしますね。

2. Posted by 四季(管理人)   2016年08月08日 23:58
無人くん コメントありがとうございます

出来レースと自我ですね。
そうなんです。

全てを知っている想念の視点で人生を見ていたら、一度見た映画と同じで次の展開も分かるからハラハラ出来ないですよね。

自我の視点で人生を見たら、自我なりの希望が湧いて来たりして欲が出てくると思います。
それなのに、欲のある方へ人生が行かない、思い通りにならない、こんな悔しい事は無いのですが、その自我の悔しがる感情を想念は体験しているのでは?とも考えられますね。

全てを知っていて自分で脚本を書いた場合ではそのジレンマやイライラを実体験できませんから。

だから人生途中で事故や災害、病気や事件等で悔しさを体験している登場人物もいるのではないだろうか、というのが私の見解です。

また、そうして途中リタイヤしている姿を見ている自我も「ああはなりたくない」という欲が湧いてきて、と連鎖が様々広がると言うとてもよくできた世界だと感心しています。

しかしこれはまだ見解なので実証されたわけでもありません。
そして今現在「自我」を持ち、先の分からないストーリーを実践で体験しながら、何とかその根拠を見つける事が出来ないだろうか、と思案&実践中です。

奥が深く面白いですね。

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