2016年08月01日
全ての事が想念の中で起こっているだけと言う事に気が付いた。
その後ネットで目につく記事が、同じような事に気が付いた人たちの記事であった。
表現は違うが根本的に同じ事を書いている。
そして、、、
この世界は全て架空の世界であると気が付くと同時にその意味も分かって来た。
私はこのブログを書き始めてから徐々に人との関りが減ってきて、最近ではほとんど接触が無い。
毎日人との会話も無ければ用事もない。
人との接触が皆無の毎日を過ごしつつ、心境の変化が見えてきた。
元々なんでもやってみたいと思っていた私は、趣味に仕事にと多方面に手を出してきた。
とにかく「やってみたい」のだ。
そしてその事により様々な人と交流してきた。
とにかく時間が足りなくて、お金も足りなくて、大忙しであった。
今は真逆の生活を送り、何もしていない。
朝起きて、食事をとり、夜になると寝る。
あれだけ多趣味でなんでもやりたがっていた自分が、今は全く何も手つかずになっている。
何かをやるという事は、結果に必ず他の人が関わってくる。
関わる人がいて反応してくれるのだ。
反応してくれる人がいない場合、砂漠の真ん中で独り芝居しているのと同じ事である。
これまでこのブログでも考えてきた事、どうして悲惨な事や詐欺師がいたりと悲惨な世界を作るのか?と。
必ずバランスを取っているので、幸せな事や嬉しい事があれば、その反対の事も必ず起こると思っていたが、そうでは無いという事に気が付いた。
我々は「意識」というものを知っている。
想念の世界で全てが起こっているとしてもその中で意識を持っている。
もしかしてこの想念も何らかの意識を持っているのかもしれない。
そうした場合、反応が無ければ何も起こらない。
反応する存在を用意し、自分の意思が何かを発信するとそれに対して反応するという世界を作っているようだ。
そしてその仕組みは舞台裏なので隠されている。
知らないからその上で楽しめているという見方も出来る。
他の人は今の私の環境に置かれた場合、もしかして「寂しい」という感情が湧き出てくるかもしれない。
今の私に寂しさは無い。
毎日静かに一人で過ごしていても寂しさは無く、ただ静かにこの世界を感じていた。
そして先ほどはたと気が付いた。
この世界は反応してくれる人を沢山用意し、ありとあらゆる反応が発生するようになっているのだと。
テロを行う連中も人を騙す人も、凶悪犯罪をする人も、普通と思っている感覚では無くなればいいと思える様な出来事等も含めて全てが何らかの反応なのだ。
嫌だと思える様な事も含めてその嫌な事を起こしている人もいる。
そうした一般的に犯罪者だと言われる人が極悪な事例を作り出しているから、日常のちょっとした事が気にならなくなる。
もしこの世界にそんな極悪非道な事をする人たちが全くいなければ、日常会話の中で「バカ!」と怒りの言葉を発したら、「とんでもない事だ」と逮捕され、死刑になるなんて世界になってしまうかもしれない。
そんな事になるわけがない、と思えるであろうがそれは今現在の社会で生まれ育ったからこの世界の常識としてそう思えるだけである。
もし自分の生まれた時代が惑星間戦争が行われており、敵に捕まると食べられてしまうのが日常的な世界にいたとしたら?
また常識という感覚も違うものになるであろう。
そんな想念という意識が作り出した世界で、我々は個々の意識という認識で毎日を暮らしている。
この想念の世界がどうなっているのか、気にしたことの無い人が毎日やりたいと熱意を傾けられる事に熱中していたら?
「もしもし?それは虚空の世界ですから、何をそんなに熱くなってるの?」
とか覚めるような冷めるような事を言う事は無いですよね。
熱意を燃やし、それに反応する人もいて楽しんでいるのだからそのまま楽しませておいてあげればいいですよね。
私も若いころは楽しんでいました。そして反応してくれる人々もいて充実した時間を過ごすという体験をする事が出来ました。
知らなければ、それはそれで楽しいであろうし、自分が知っていても反応してくれる人々が知らなければその反応も楽しめる。
想念の世界の中でのバーチャルな出来事であると気が付いている人はまだ少ないと思う。
薄々気が付いていても、現実的に夏は暑いしそんな中ビールは旨いし、と感覚的に感じている状態ではバーチャルであると完全に気が付く所まではいけないのであろう。
知らなければ知らないでいいのかもしれない。
しかし、最愛の人を失ってしまったり、自分自身が絶望の底へ沈んでしまい、抜け道が見つからないと言うより抜け道の事すら考える事が出来なくなってしまった人が、実はこの世界はバーチャルであると気が付く事によりまた楽しめる世界に戻れたりすればそれはそれでいいのかもしれない。
それでもバーチャルであると気が付くことが出来ず、自ら人生を終えてしまえば、この世界での非常にヘビーな出来事としてこの世界を構成する要素になるのかもしれない。
人生にストーリーはあるのか?
この事をとても深く考えてきたのだが、ここはまだ答えが見つからない。
有りそうだし、なさそうだし、ある人もいそうだし、無い人もいそう。
しかしここ数年の自分自身の周囲の環境を見渡してみると、このブログを想念まで書き、そしてその意味を見つけ出す為に自由で孤独な環境が用意されたと思えて仕方がないのだ。
「人生に起こる出来事は、全てがベストのタイミングで起こる」
こう言われている。
もしかしてこれもストーリーが描かれており、それに沿って全ての出来事が予定通りベストなタイミングで発生し続けているのでは?とも思える。
自分自身が人生のストーリーを描いているのか、分からないが自我として持っている自分の意識とは価値観と言うか思考が違うように感じる。
人間としての意識の価値観では災害や事件事故等で命を落としたりする事は「不幸」であると思うが、人生のストーリーを描いた存在からするとまるで不幸とは思っていないかもしれない。
では殺人事件の家族にそんな事を言えるのか?という事がこうした話ではよく登場するが、言う必要は無いし、そんなストーリーを描いた人の計画が何かしら有るかもしれない。
「人生は出来レース」である(笑)
しかしそれを分かったうえで本気で楽しむ事が出来れば、また味わいも違ったものになるかもしれない。
どんな世界でも出来レースという真実を知らない人の方が多いのである。
だから知っている人は知らない人、信じようとしない人を説得する必要もないし、教える必要も無い。
一緒に楽しめばいいのだ。
人々はストーリーにどんな出来事を予定しているのだろうか?
それとも個々の世界は独立してその意識だけの世界で、その他は共有したりしているのかもしれない。
そんな視点で現実世界と思っている世界を見るという人が少数いても楽しいのであろう。
やはり人生と感じているこの時間と世界に無駄な事等無い。
そうは言っても・・・と悲観する人がいたら、その感情もその人にとって必要な感情なのであろう。
過去に起きた事を忘れていても、それは何らかの理由があり心に何かしらの形で残っていたり、相手が覚えていたりして消えたりするものでは無い。
無駄な事は何も無い。
VR(バーチャルリアリティ)という技術が発達し、その世界の中に没頭してその世界観を楽しむことが出来る時代になってきた。
VRだから、とバカにしていたら楽しむことは出来ないのだ。
社会に無用な人もいない。
そんな緻密に構築されたこの世界で、VRを楽しむ事が出来ている我々はその肌感覚から危険までを体験し、もしかしたら疑似体験かもしれないが感動してみたり出来るのだ。
登場人物(役者)が真剣だからVRも真剣に楽しむことが出来るのだ。
VRだという事を忘れてしまう人の方が多いのだろうが、せっかくその世界を楽しんで体験しているのだ。
人の楽しみは邪魔しないほうがいいいであろう。
以前もこのブログに書いたが、80才を過ぎてから「もっとチャレンジしておけばよかった」と後悔しないように果敢に楽しむことに挑戦していきましょう。
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この記事へのコメント
1. Posted by 無人くん 2016年08月06日 22:15
こんにちは
大方同意なんですけど、1つ疑問があります。
本当に「人生は出来レース」なんでしょうかね?
現実世界がバーチャルなドラマだとしても、
予めストーリーが分かっているなら誰も見たいと思わないですよね
何かしら不確定要素があるからドラマとして楽しめるのだと思います。
不慮の事故で命を落とすケースにせよ、
そういうストーリーを好む人はいないとは言い切れませんが、
普通なら早期退場は誰も望まないでしょう
「想念」の中の世界なら個人でストーリーが完結できるでしょう
しかし、現実世界では見ず知らずの他人がそれぞれのストーリーを実現しています。
意図せず他人のストーリーが干渉してきたとすれば、
不確定要因として自分のストーリーが崩れる可能性はありますね
つまり「想念」=「現実世界」ではないということになります。
まあ、他人もすべてひっくるめて自分の想念という意見もあるでしょうけど、
身に覚えのないものまで想念にはなり得ないかなと思いますw
そこは切り分けが必要な気がしますね。
自分の考えたストーリーを不確定要素が渦巻く「現実世界」で実現したい
満足できなければ、満足できるまでリプレイ(転生)して続ける・・・
というのが私の考えです
大方同意なんですけど、1つ疑問があります。
本当に「人生は出来レース」なんでしょうかね?
現実世界がバーチャルなドラマだとしても、
予めストーリーが分かっているなら誰も見たいと思わないですよね
何かしら不確定要素があるからドラマとして楽しめるのだと思います。
不慮の事故で命を落とすケースにせよ、
そういうストーリーを好む人はいないとは言い切れませんが、
普通なら早期退場は誰も望まないでしょう
「想念」の中の世界なら個人でストーリーが完結できるでしょう
しかし、現実世界では見ず知らずの他人がそれぞれのストーリーを実現しています。
意図せず他人のストーリーが干渉してきたとすれば、
不確定要因として自分のストーリーが崩れる可能性はありますね
つまり「想念」=「現実世界」ではないということになります。
まあ、他人もすべてひっくるめて自分の想念という意見もあるでしょうけど、
身に覚えのないものまで想念にはなり得ないかなと思いますw
そこは切り分けが必要な気がしますね。
自分の考えたストーリーを不確定要素が渦巻く「現実世界」で実現したい
満足できなければ、満足できるまでリプレイ(転生)して続ける・・・
というのが私の考えです
2. Posted by 四季(管理人) 2016年08月06日 23:23
無人くん コメントありがとうございます
とてもややこしい話ですね。
この部分については私ももう少しブログに書きたいと思っていました。
イメージとしてはあるのですが、文章として表現するにはとてもややこしく、コメント欄では書ききれないので、後日ブログ記事としてアップしますので、それまでお待ち下さい。
とてもややこしい話ですね。
この部分については私ももう少しブログに書きたいと思っていました。
イメージとしてはあるのですが、文章として表現するにはとてもややこしく、コメント欄では書ききれないので、後日ブログ記事としてアップしますので、それまでお待ち下さい。