2016年04月02日

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葬儀

先日父の葬儀があり色々と考えた。

長い人生いろいろな出来事があり、沢山の人との交流も有り葬儀に参列してくれた方々の面々が歴史を物語る。

以前親戚のおじさんの葬儀の時、そのおじさんが参列者に一人一人挨拶している様子が見えたりという事もあったので、今回父もそんな姿が見えるか?と思っていたが、今回は何も無かった。

子供の頃「宝物」と思っていたおもちゃも大人になれば単なるおもちゃ。

学生の頃、勉強の成績や部活の勝負の勝ち負け等は一番重要な関心ごと。

社会人になれば、毎月の売り上げやプロジェクトの成功等が第一次の関心ごとであったりと、その時々で関心ごと、重要な事は変化していく。

スピリチュアルの世界を探索し続けて思う事。

大人になれば子供の頃に宝物と思ったおもちゃの事は単なる思い出となるように、スピリチュアルの世界を知っていくと、人間としての現実社会での事は「幻想である」となる。

現実世界に人間として存在したまま心境だけがスピリチュアルの世界へ行ってしまうと、人間社会の事が全てどうでもよくなるという感覚は、捉え方も様々あるだろうが大人になってから子供の頃のおもちゃを見るような感覚なのかもしれない。

父の葬儀の時、自然に思った事は「お疲れ様」という言葉。

どういった目的で人間界へ来たのか、元々目的など無かったのか、生まれた家で生涯を過ごし、近所の病院で眠ったまま生涯を閉じた。

夜になり庭に出て父の気配を探してみたが、爽快感だけが残り何の未練も感じられないといった感覚であった。

葬儀の参列者に色々話を聞いてみると、やはり亡くなる直前には準備行動を行っている事が判明した。

親類を集めた久しぶりの会合や直前の散髪、荷物の整頓等の身辺整理、まだ他にもあるのだが本人にはそのつもりは無く何気なく行っていたと思う動きが、結果準備行動になっていたのだ。

それまでは元気でいて何の前触れも無く突然テレビの電源を切るようにぱたりと逝ってしまった。

徐々に具合が悪くなっていったのであれば準備行動もなんとなく理解できるが、今回は脳内出血であったので突然の出来事だ。それなのに準備行動がどんぴしゃのタイミングで行われている事に何かを思わせる。

良くわからないスピリチュアルの世界に入り込みすぎると、現実社会の人間としての生き方に価値観を見いだせなくなるというこの感覚は、現実社会で言われている「スピリチュアル廃人」という言葉に繋がるように思えてくる。

学生の頃、大人びた思考を持ち同級生の行動に冷めた目線を送る感覚と同じような感覚かもしれない。

その思考が良いとも悪いとも言えるものではないだろう。

その時その時の現象に一喜一憂出来る感覚も楽しむ経験として味わえる。

散々経験をした後、感動するような事にも慣れてしまったらそこから新たな発見があるかもしれない。

つまらない平穏な時に何か事が起こると、そこに驚きや感動等が生まれる。

いつもびっくりするような所に居続けてもびっくりも慣れてしまう。

暇なとき、平穏な時、退屈な状態は次の感動や驚きなどの準備期間であろう。

葬儀の後、霊的な不思議現象もあったのだがここでは書けない内容なので伏せておくが、やはり人の意識は肉体が無くなってから数十年経過しても何かしら存在するという事を実感した。

スピリチュアルの世界はまだまだ奥が深いし、理解を超えた所が多い。



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(14:30)

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この記事へのコメント

1. Posted by rose   2016年04月03日 00:21

昨年主人が突然の事故で亡くなりました
まだ40代も前半で
死んだらひとはどうなるのでしょう
亡くなった側は残されたもののことを感じることはできるのでしょうか
自らの寿命を生まれたときに決められて
この世に生をうけるとそんな話をよく聞きます
ひとは誰しも必ず生命の終わりを迎えますが
身近なものの死をもって改めて死というものについて
考えました

2. Posted by 四季(管理人)   2016年04月03日 11:56
roseさん コメントありがとうございます

ご主人の突然の事故、残念です。
ご冥福をお祈りします。

自らの寿命の話は本当に多くの事が言われています。
分単位で寿命を分かっていた人や、気にしていたことが完了するのを待っていたという話、本人は知らないと思われるが準備していた話などなど。

そして生まれる前に自分の寿命を自分で決めて生まれてきたという話まで本当に多いのですが、現状人間の我々には確かめようも無いというのがもどかしいですね。

残された側の人間としては、寿命は決められていた事、運命という考え方をすると諦めがつくのでは?という事から運命論などが言われて来たという考え方も出来るように思えてしまったりもします。

人生そのものに意味があり、何か目的があるという事であれば悲しみもまた意味があり、何かしらの目的に必要な事かもしれません。

また逆に人生に意味や目的など無いとするならば、早すぎる寿命は嘆き悲しいものだけともなってしまう。

どちらにしても残された人間の心次第というのが現状ではないかと思います。霊能者とか宗教関連の方々は色々な事を言いますが、どれも矛盾を含んでおりこのブログでも探求してきましたが、まだ結論には至りません。

私自身の経験から、無くなられた方にはこちらの心は伝わっているように思えてならないという事。タイミングか何かが合えば向こうからの気持ちも伝わる事もあるように思えます。

無機質的な言い方をすれば、肉体の接触や音声の伝達という物理的な経験はわかりやすく刺激的ですが、心の交流も有ったはず。

今後は心の交流だけになるがそれもまた愛。

無くなられた方に執着しすぎると魂を縛り付け、成仏を妨げるとも言われていますがこれもまた不明瞭。

ご自身の心が時間と共に納得するまで様々な感情が沸き上がるでしょうけどその感情を拒否せず受け入れてみてください。

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