2015年02月19日
現代に生きる我々は様々な形で「生命」を守られている。
仕事でも安全第一、娯楽施設でも事故防止、食品でも衛生管理、移動でも交通安全、とにかく安全が全てにおいて優先されている。
それはここ数十年の日本での事。
40年位前の日本では「職人は怪我をして一人前」と言われている時代もあった。
更にそこから30年前、自らの命を捨てて任務を遂行する戦争。
戦争などの場合、何も反撃しないと相手が攻めてきて占領されてやりたい放題やられてしまうという脅威があったので、「守る」といいう観点からふんばった。
それでも相手の勢力が強いと、「玉砕」という最終手段。
占領されやりたい放題にやられるくらいなら玉砕してでも。。。
更に数百年前の日本、占領した土地を更に広げるために領地争いの戦闘が繰り広げられていた。
この場合、占領されるとその土地の「主」は打ち首等で命を奪われた。
だから皆負けないように必死、まさに命がけという戦い。
どの場合も相手の何かを奪いたいという「欲望」が発端である。
歴史の資料として残っているデータから見て織田信長は「戦の無い世を作る」という事を表題として戦っていた。
その後「天下を取る」という秀吉、ようやく戦の無い国になったと思ったら今度は朝鮮半島を「欲しい」と言いだす始末。
権力者の「欲」、権力を欲する、この欲から全ての争いが生まれる。
そして権力者に支配された若者が戦場へ送り出され、命を落とす。
ロシアの映画「スターリングラード」という戦争映画(実際起きた事を再現したもの)でも、無謀な戦場へ「進め!」という掛け声で若者が突撃するが、皆撃たれて悲惨な状態、これでは勝ち目がないと退却してくる若者へ「逃げる者は撃ち殺す」と味方の陣から撃たれて死ぬ。
現代人は命を可能な限り守られている。
守られた状況の中で思考し行動する。
たった70年前の時代の事だが、命を守られ安全な生活を送りながら当時の状況を考えてみても実感は湧きにくいだろう。
戦国時代、戦争の時代、この頃の人間として生きて「何を学ぶ事があるのか?」
戦艦に戦闘機で体当たりする事にどのような「学び」があるというのか?
現代の命を守られた環境で「理不尽」な事を想像しても理解はできない。
スピリチュアルの世界ではこうした理不尽な出来事にも何かしら理由を付けて解説している。
ほんとうにそうか?
ある霊能者の解説では、あまりにひどい亡くなり方をするような場合、体験する直前に魂の緒を切るという。あまりにひどい場合、魂に傷がついてしまい魂そのものの存続が難しくなるからだという。
この内容からすると、霊界は人間への関与は出来ていないと解釈できる。
ゼロ戦で特攻する時、敵戦艦へ爆弾を抱いたまま体当たりする等のひどい場合、体当たりする直前に魂の緒を切り、悲惨な体験をさせないように配慮するという事であろうか。
以前も紹介したアメリカの戦闘機に乗っていたパイロットが撃墜され燃える機体と共に墜落したという記憶を持つ子供の映像があったが、炎に焼かれていた記憶はあるという。墜落する直前で魂の緒を切られ、墜落の衝撃は回避されたのか?
霊界は人間界をコントロールできるのか?という疑問を以前も掘り下げた事があったが、どうも直接のコントロールは出来ないという方が正解に近いという感じなのだが、精神的に人間をコントロールする事なら出来るという話も多い。
しかし、精神的にコントロールできるのであれば、戦争等という発想に突き進むまえに方向転換させればいいだけの話であり、魂の修行に戦争が必要なのか?とおおいなる疑問は残る。
つまり霊界は人間界への影響力はほとんど持たないという見方が強くなるのではないだろうか?
では、何か物事始めようとすると必ず邪魔がはいったり障害が立ちふさがる状態や、様々な不思議なめぐり合わせ等の現象はどう考えるか?
人間の感知できる範囲は非常に狭い。
それゆえに気が付く事の出来ない範囲で起こる事を解明しにくい。
不思議なめぐり合わせやタイミング、運等という現象と、霊界の現象と言われる事は、実は別物で関連が無いのかもしれない。
人間には感知できない世界で起こっている事なので、事を始めた時起こる障害等と、不思議なめぐり合わせで事がうまく運ぶような現象をまとめて霊界が助けてくれたことと思い込んでいる可能性は無いだろうか?
静かな湯船にゆっくり浸かっている、至福の時だ。
さて、そろそろ温まったから出ようかと思う。
立ち上がると波が立つ。
波は湯船のふちまで行くと、跳ね返って自分のほうへ帰ってくる。
自然の法則だ。
そして湯船の中を歩こうとすれば、次々と自分の起こした波が足元を揺らし、歩きにくい。
勢いよく立ち上がれば立ち上がるほど波は強い。
大きな湯船で他の人も浸かっていれば、その大きな波に不快感を示す人もいるだろう。
神のしわざか?
湯船で他の人が起こした波を受けて顔に湯がかかった時、「これは神の試練だ」と思うか?
そこで湯船に浸かりながら「この試練から自分は何を学ぶべきか?」と考えるか?
自然の法則で起こった波はたんなる波であり、神の試練でもなければ啓示でもない。ここを結び付けて色々考えてしまうからおかしな理論が登場したり、一見筋が通っているように見えて他と矛盾を起こしてしまう。
戦争等のどうにも逃げ場が無い理不尽な状況は「誰かの欲」から発生した波であり、巻き込まれてしまったのである。
ここに魂の学びや神の意思は無い。
この世で起こる事は全て意味がある。
確かに意味はあるだろうが、神の意思で起こるという意味ではないだろう。
逆に、全宇宙も何もかも全てが大自然の法則で動くこの動きこそ全てが「神」だと言うのであれば、そのほうが腑に落ちる。
あたかも誰かの「意思」があり、その意思に沿って「義務」が生まれるという考え方では腑に落ちない事が多くなる。
「個」としての特定の「意思」を持つものとして「神」を考えるとその神の「価値観」や「考え方」といった人間が持つ同類の思考との比較から、矛盾や理不尽といった感情が湧いてきてしまう。
人間の感知できる範囲は非常に狭い。
見えないが「ある」とされる事はいくつか発見され定義されている。
電波や放射線、ニュートリノや紫外線赤外線、まだ発見すらされていない何かもあるだろう。
誰かの欲の為に自らの命を懸けて戦う等という事はとても虚しい。
東日本大震災で未だ多くの人が苦労している。
東電はその被害に対して補償しなければならない。
だから復興の為として電気代が値上がりした。
しかし決算発表をみれば黒字と儲かっている。
何の為の値上げか?
しかし一般人は発電の会社を選択できない。
東電を利用し、電気代を払わなければならない。
その事がそんなに不愉快なら引っ越せばいいのでは?と間抜けな事をいう人もいるが、それは見当違いの議論となる。
こうした理不尽と権力者の欲、これらと和解することは難しいだろう。
結局どこかで戦わなくてはならない。
結局、人間が生きるという為には必要となる物が有る為、欲が生まれる。
欲の大小の違いだけで、常に小競り合いがある。
ここへあたかも何かしらの「意思」をもった「神」という存在の関与があるかのような話をまことしやかに展開しては、勘違いが勘違いを生み、伝言ゲームで尾びれ背びれフカヒレがついて混とんとした状態になってしまうのだろう。
視点をしっかり分けて、これは自然の法則、これは霊界のメッセージ、等と分けて観察していけば、混乱は少しは減るのではないだろうか?
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この記事へのコメント
人間だろうと、目に見えない存在だろうと、そうしたしたご託を主張する輩には
「体験の学びを積んでどこに行き着くのか?」
と徹底的に追及してやると沈黙、退散する事請け合いです。
これを追及すると、あらゆる霊的進化の教義が自己崩壊するからです。
コメントありがとうございます
これまでの一見霊界の仕組みを説明し、最終的に神を崇める方向への誘導は最終的にはマインドコントロールを有効にし、財産を集める手段または人心を掌握し権力者の配下へ置き、思想の違う団体を攻撃する為に使用されてきました。
戦国時代キリスト教を布教に来たザビエルは、日本の武家社会と戦闘能力の高さ等を実感し、本国へ「武力で日本を支配する事は困難」と手紙を送っており、「キリスト教にて心を支配する方が賢明」と綴っていたそうです。
結局権力者の道具としてもキリスト教が利用されていた事が判明したのでキリシタン禁止令も出されたことでしょう。
人間はある思想を信じてしまうと、よほどのことが無い限り自分の判断を覆す事が出来にくいという特性を持っていると思います。
だから意地でも覆されぬよう、新たに思想を巡らし宗教理論を作り上げていったと思います。地位を得て人へ布教する立場になればなるほどこの意地は強い物になる事でしょう。
つづく・・・
だからといってこうした思想と戦う意味も無いように思います。
地面に「石」がある。
ただそれだけです。
戦いは激しい感情を生み出し、戦う者同士で相互に呼応し大きくなっていく。
その周辺にいるもの達を巻き込んで更に増大し、更に周辺の者達を巻き込んでいく。
戦争の始まりです。
考え方、意思を押し付けてくる人達に同じエネルギーで立ち向かう必要は無く、素通りしていればいいと私は考えます。
押しつけを通り越して、強制的に強要してくる場合、逃げるが勝ちかと思いますが、逃げ遅れた家族等が巻き込まれ、強要され、悲惨な目に遭う状況であれば、思想の強要に反するのではなく、家族を助けるという大義名分で戦う事になるでしょう。
平和な森も山林火災が発生すれば焼き尽くすまで燃え続けてしまいます。
炎が発生したら、強大化する前に鎮火させるのが良いと思うのはこちら側の考え。
炎になる側は、平和な森が気に入らないからこそ燃え上がっているので、やはり戦いになってしまいます。
人間社会だけでなく、地球上に存在するものがある限り、戦いは無くならないでしょう。
テロ集団が発生するのも、誰かの欲への反発からの事であり、山林の火災です。
何方に正義も悪も無いでしょう。
お互いに自分の考えが正義なのです。
この世界に学びという概念を作り出したのも人間であり、試練という概念も人間が作り出した概念、そしてそれは自然の法則で起こった事であり、神か誰かの意思で強要されたものでは無いという事はほぼ事実として認定しても良いのではと考えています。
これまでスピリチュアルの分野では、あまりにも多くの人が偏ったドグマを一方的に思い込まされて来ました。
私の挑発的に見える提言は、こんな教説に
思い煩う必要は無いですよ、物事を決める力は皆さんにありますよ、という呼び掛けです。
力を付けた者には、侵略者もおいそれとは
手出し出来なくなります。スイスが永世中立を維持出来るのも、それなりに屈強な防衛体制を保持するからでしょう。
そうですね、これまでの考え方が偏りすぎていた、これが私の疑問の始まりの一つでもありました。
矛盾が有りすぎて、その解釈が気持ち悪い。
そして結局お金を払って団体へ入りなさいという図式がどうにもスッキリできませんでした。
その思考をひっくり返してやろう、とか対決姿勢は何も無く、あるのはただ真実を純粋に知りたいというここも「欲」からの始まりです(笑
自分自身の解釈で自分自身の精神状態が安定していれば、惑わされたり騙されたり巻き込まれたりという不快な現象に関わらずに済むと思います。
これが難しいのだと思いますね
「理不尽」であるとか「学び」であるとかが個人の認識でしかない
個を認識範囲では何処までが霊界のメッセージか分からない
ネットで情報は氾濫していますが、個人の固定観念で容易にゆがめられます。
霊能者と呼ばれる人は、一般の人より広い視野を持っていますが、宗教的教義に縛られていることにより、フィルターがかけられていることが多い。もったいないですね
結局のところ、いかに真っさらな状態で物事を見られるか・・・だと思います。
言い換えれば、バカになれということなのかなと思います。
そうなんですよね〜起きた現象に対しての選択というか分類という思考は、基本的に中立で更に広い視点と知識が必要と思います。
まあ、未知の世界を研究する科学者たちも同様に様々な検証から仮説を立てて、それを立証していくという流れと同様で、霊界も仮説を元に様々な現象を検証して積み重ねていくうちに共通点などから見えてくる事があるのではないか、と考えています。
こうした地道な積み上げが解明に少しは役に立つのではないでしょうかね。
引き寄せでしょうか、私に憑いている見えないが「ある」何かと随分遣り合いながら「webの波で散々弄ばれているけど、興味のもてるブロガーさんのところへ導いてよ(怒)」と言ってたら、此のブログのページに飛ばされました(笑)
突然異世界の何かに捕まり、支配され拷問に耐えながら、何故こんな目にあうのか?相手の正体は?意図は?と、自分の身に起きていることが神の試練だとは思えず、スピリチュアルの知識もない私が、いやおうなく調べざるをえない状況に陥り、今も人智を超えた何者かの傀儡になりたくないと抗いながら苦悶しています。
>スピリチュアルの世界ではこうした理不尽な出来事にも何かしら理由を付けて解説している。
全く同感です。後付けで何とでも取れるのだから、簡単には納得できない。
地上で起きていること、重要な人物や重大な出来事が予め計画されたことであるとするならば、あまりに残酷。セットした後は傍観しているだけなんて、まるでゲームでもして楽しんでいるのか、と言いたくなる。成長する上での犠牲だと言うんだけど・・・
調べれば調べるほど、取りようによっては何とでも取れる、興味を引くようなおもちゃ箱を沢山用意され、まるで聖書の謎にとりつかれた人達同様、翻弄されっぱなし。
四季さんのブログ更新、楽しみにしてます。
そうなんですよ、得体のしれない何かがいるように思えてしまう簡単に理解解釈出来ない世界があるかのごとく(笑
そちらへ意識を向けると、益々謎の世界へ引き込まれる?巻き込まれる?これも引き寄せの法則と同じようなイメージなのか。
随分と悩んでおられる様子が伝わってきました。
どうなってるのでしょうかね?
私も自身を実験材料として色々試したり、心の持ち方を変えてみたり瞑想してみたり、まるで無視してみたりと様々な事を検証しながら、他の方のブログも拝見し、霊能者にもお話を伺いながら日々疑問と格闘しています。
何か不思議な体験をしたり、理解しがたい現象に遭遇したり等のお話がありましたら、ぜひお聞かせください。
今後共よろしくお願いします。