2014年04月21日

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駅前でスピーカーを使い「人は生まれながらに罪びとです」と流れている言葉にいつも違和感を持ちながら歩いていた。

「罪」とは?
「罰」とは?

基本的にこうした概念は人間が生み出したもの。
動物の世界では縄張り争い、食物連鎖で食べられる危機、子供が狙われる危機等を回避する為に闘ったりするが、危機が去れば「仕返し」等という行動に出る動物はいない。
自分が襲われると墨を吐いて逃げるイカ、臭いにおいを発して相手が怯んだすきに逃げるスカンク等も危機が去れば平穏になる。

高等動物と言われている猿の世界ではイジメが有ったりするようだ。
個体の認識が出来ているからとも言われている。
ネコが高等動物かどうか分からないが、ネコはやられたらその場でやり返すという行動がある。人間と共に暮らしているうちにそうした感覚的な部分が伝搬したのかどうかは確認するすべもないであろうが。。。
人間は個体の識別に非常に厳格である。
しかも何かした後にもどの個体が行ったのか判別できるように化学も進化し、指紋やDNAといった個体特有の識別で調べることが出来るまでになった。

進化論の論争になってしまうので、この辺りはこのブログでは目的が違うと言う事でこのへんでやめておくが、誰が何をしたかという行動が非常に重要となっている。

そして個体がしっかり識別できると、誰がそれを行ったのか後でもわかる為、その行いが気に入らない人も出てくる。すると、仕返しという行動に出る個体もあるであろう。
された事が気にいらない、同じ思いを相手にしてやりたい。

更に人間が沢山集まり集落となって暮らす所には「掟」が出来てくる。
掟を定めるのは「集落の長」であったり「祈祷師」であったりした。
掟破りは村八分となり、集落の人々から相手にされなくなり、そこで暮らすことが出来なくなったりした。
掟が無ければ人はどういった行動に出るのか?
誰かが畑で作物を育て、食べごろになるとそれを他の人間が持っていってしまう。
育てた本人は苦労だけして作物を食べることが出来なくなりがっかりする。
怒る人もいるだろう。
結果、次には持っていかれないように柵を作ったり見張りをしたり、罠を仕掛けたりと知恵を働かせる。
それでも上手がおり、作物を持っていかれる。

何とか防止する方法は無い物か?
農家の人々が集まり、見回り組を作る。
ドロボウを捕まえると、縛って気につるしたりと「懲らしめる」事を目的としての仕返しのような事が行われた。

人間の中には「人々を支配してやろう」と考える人間もいた。
そうした人間が農家を支配し「年貢」を納めさせる代わりに、他の支配者から守るという事が行われ、「藩」が出来、今度は藩どうしの争いから「天下を取る」という争いが行われてきた。

現代では藩が進化し「国」という呼ばれ方だが、この国同士も争い続けており、国土を広げようと様々な事を仕掛けたりと戦略を練った争いが行われている。

藩の時代もそうだったが国となった今でも、支配者の都合が悪いと思われる事、人々を支配する為に、勝手な事をさせない「ルール」という縛りを設けている。
このルールを全ての人間に守らせるために「ルールを破る行動を起こす人は罪人」という概念を生まれた時から「刷り込んでいる」。

戦争を行っていた数十年前、戦争に反対するような言動をするだけで「非国民」と近所の人から罵られたりもした。
国が決めたルールを国民同士が監視し合い、守らせるための社会の仕組みを作り上げてきたのだ。

非常に簡略にこれまでの流れを書いた内容を見ると、今の社会を批判するようなつもりは全くない。客観的に感じた事を書いただけである。
しかし、この文章を読んで「不愉快」な感覚を覚えるとしたら、それは生まれた時からのルールを守るという概念がしっかり刷り込まれているのではないだろうか?
また、この刷り込まれているという表現に不愉快を覚えるとしたら、他人に見透かされたように感じてしまうかもしれない。
そうした人を攻撃するような意図は全く無いという事だけはご理解いただきたい。

前段階が長くなったが、こうした流れから「罪」と「罰」という考え方は誰かが自分の都合のいいように作り出しているルールである事は否定できないと思う。

生まれてから教え込まれてきたこの感覚は、「人間としては当然持ち合わせる感覚」と思われている。精神世界を考えるときも「考える」のだから知らないうちにこうした基本的な感覚を何かの定規として測る事になるだろう。

「天罰」という考え方も、法律や今の人間社会では解決できないうっぷんを代わりに「天」(神様)が代わりに「仕返し」をしてくれたらいいのに。。。
と思った人はいたであろう。そしてそのような会話は、「ありそうだね」から「きっとあるよ」、そして「絶対ある」、現実的に「天罰」としか思えないような事が起こると「やっぱりあれは天罰だよ」となり定着する。

魂の世界、精神世界、あの世、天界、様々な言われ方をしているスピリチュアルの世界もこうした基本的な人間の概念から「推測」されてきたことであろう。
また、「神の声が聞こえる」と言う人まで現れてきているが、だれが神の声と判定することが出来るのであろうか?

聞こえると言っている本人は、「間違いない高次の存在」だとか言うが、私には分からない。
他の霊能者と呼ばれる人は、「高次の存在を語る浮遊霊」もいるという。
こうした神の声から「〇〇しないと天罰を下す」と言われたという流れから、人柱として生きた人を埋めたりと現代の人の感覚からするとむごい事もしてきた。

そうした神の声も半信半疑の私はこうした一方的な「お告げ」に振り回されたくないという天邪鬼的な考え方からこのブログを書き続けるパワーをもらっている部分もある。

自分自身に神の声が聞こえ、お告げを受け、それが非現実的な展開になる等のある種「証拠」とでも言える現象が確認できれば、考え方も変化するであろうが今の所そんな事は起こっていない。

「天罰」という考え方は、ある種人々の「希望」や「欲求」であろう。そして、そう思う人が増えてくると、人々の概念の集合が大きな何かの力となり、現象として「天罰」のような事になるのではないかとも思える。

それでも解決できない現象が起きた場合、「前世での行い」まで持ち出し、それが原因で今「罰(バチ)が当たった」という流れではないだろうか。

しかしこの前世での行い等、前世という考え方もあながち否定できないとも思える。

私の守護霊と会話が出来るという霊能者に見て頂くと、30年前に鑑定した霊能者もつい先日お会いした霊能者も同じことを言うのだ。
場所もまるで違うし、年代も全然違うのに私を見て同じことを言う。
まあ、その間に見当違いな事を言ったまゆつばな霊能者も含まれていたが(笑

数百回も輪廻転生してその数の人生を過ごし、幾多の経験をしてきたならば、そうした過去の事を垣間見て、あながちまゆつばな霊能者とも言えない事も無いだろう。

物事は立場により見える景色が変わってくる。同じ現象でもその時の心の状態で違った感じ方をするだろうし、時間が経過すると正反対な考え方にもなる。
つまり解釈の仕方でどうにでもなってしまう。
「罪」と思われたことが実は「奉仕」であったり「罰」と思われる事が「その人の望み」であったり、「善行」のつもりが「迷惑」など書ききれないほどある。

要は「解釈の仕方」で変化するだろう。

スピリチュアルの世界では実は、もっと違う何かの法則があるように思える。
簡単に言えば、よく言われる「振り子」であり、行き過ぎて限界まで行けば同じ分だけ揺り戻す。こうした自然現象の基本的な動きからすべての世界が成り立っており、様々な世界や様々な分野に大小無数の振り子が存在し、揺れながらリズムを刻んでいる。

その振り子に逆らって動けばぶつかるし、衝撃波が発生しその周辺は流れが乱れる。
乱れた流れに不快感を感じる人もいるだろうし、誰かの衝撃はで自分のリズムも乱れペースを狂わされる人もいる。

また戻ってきた振り子にタイミングよく乗り直す人もいれば、乱れた渦に巻き込まれ、仕返しを考え、敢て衝突を狙う人もいるのではないだろうか。

自然の法則の流れ、気合が入りすぎて相当早い振り子へ乗ろうとチャレンジした結果、乗ることに成功したが、乗り続けることが出来ず落ちる人見るだろう。
落ちた所へ別の振り子がやってきて衝突し、弾き飛ばされたところでまた別の振り子に衝突、ピンボールのように衝突しまくり、悪い事は重なる、、、と解釈するかもしれない。

ではそんな振り子へ乗ろうと思わなければいいのではないか?という考えもある。
勿論早い振り子へ乗ろうと思わない人がいる場所も実はゆっくりした振り子かもしれない。
動物と呼ばれる生命は全て振り子の振動に乗っているから生命が維持されているように思えてならない。生命という事自体も振り子の一種であろう。

人間社会の中にどっぷり入り込んで生活していると、同じ人間の誰かの決めた振り子の渡り歩きのルートを行かなければならない。当然脱落する人もいる。偉い人とか教授とか博士とか親とかが渡ってきたルートは、それらの人の経験から推奨されるルートでありそれが絶対ではない。

国を守る。
会社を守る。
国境を守る。
何かを守る。

守りたい人の意向でルールが決められ、それを守らない人を強制的に捕まえて牢へ閉じ込めておく。
悪い事とかいい事、必要な事等という考えは解釈次第。
こうして様々な振り子が揺れる為のバランスを保っている。
バランスを崩す存在は大きな振り子にとって邪魔なので排除しようとする。
しかし制御を超える数の小さな振り子が大きな振り子のほうが邪魔だと思えば、大きな振り子は飛ばされたり、止まったりする事もあるだろう。
その姿を見ていて、それが「天罰」?に思える解釈も自由であろう。

最近テレビを見ていると、何かしら事件が起きた時「弁護士」が登場する事が多い。
「法的には・・・・」
と始まるのである。
何でもかんでも法律で解決しようといった考え方。
また、「法律にやってはいけないと書かれていないから、やってもいいんだ」という自分勝手な考え方。
もっぱらの話題が、憲法の「解釈」で自衛隊を・・・とやっている。
これも自然界の長年の振り子から発生してきた社会の変化の途中なのかもしれない。
様々な解釈で事件や事故が起こり、それが歴史として記録されて行く。

大きな流れは勝手にやっていてもらって構わないが、個人という単位では、もう少し幸福感を得られるとありがたいがと思う。

引き寄せの法則を意識し始めて3年程になるのだが、振り返ってみてみると今現在は非常に穏やかでいい状況にいる。精神的な変なストレスは無く、楽しみもたくさんある。
かなりの事が解決され、意図しない方角から振り子がやってくる事も無い。
つまり変な現象に巻き込まれないという事だ。

ほんの少し考え方の引き出しを増やしてみると(考え方を無理に変える必要は無い)生活環境等はかなり簡単に変化する。
穏やかな生活の中に幸福感が溢れている。

こうした実感を感じる事が出来る人が増えると嬉しいではないか。
そして周りにそうした人が増える事も更なる幸福感を増やすといういい循環が始まる。

前回書いた引っ越し先の件ももしかしたら、この辺りに理由があったのでは?
とも思える。まあ、まだ1ヶ月もたっていないので結論は出せないが。

考え方の引き出しを増やす、これは是非お勧めである。

 


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