2013年05月16日

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これまで疑問に思ってきた事を数多くブログへ書き綴ってきて、一段落したので完結していたと思っていたのだが、新たに湧き上がってきた事があるので、これからはこうした内容を不定期で追加してみようと思う。

今回のテーマは「因果応報」。

数々の修行をされてきたという霊能者の話の中に「因果応報」の話がある。

これは前世でしでかした事等が世代を超えて自分の身に降りかかるという。

例えば、自分が交通事故等で相手を死亡させてしてしまった時、実はその前世で逆に自分が殺害されていたという。

また、前世で人にひどい事をしたの前世の応報で今世はひどい事をされる。

こういう考え方は、言われてみると納得してしまうようなのだが、ちょっと違う。

今世を生きている今、自分が何か心を痛める事に遭遇した場合、自分を納得させるための考え方としてはいいかもしれない。

それで、自分を取り戻してまた落ち着けばそれはそれでいいのであろう。


しかしどうしても腑に落ちない。

因果応報という考え方は、別名カルマとも言われたりしている。

人によっては「ちっと違う」という人もいるであろう。

そうして定義の違いでの議論は今回のテーマ追求とは論点がずれるのでおしまい。


こうした議論の大前提に「輪廻転生」という考え方があるが、もちろん今までの追求で輪廻転生はしてくるという事で話を進めていく事にする。

そうでないと因果応報という考え自体もまるで無いという事になるからである。


前世で人を殺してしまった場合、今世でその応報を受けると言う事は、前世で殺害した人にそのまた前世で殺されているという可能性が考えられる。

こんな無限ループの起点はどこ?

人間が文明社会を発達させる前、(最近では進化論を疑う人はいないと思うが)野生動物と共に生きていいた時代、人間の祖先も「食物連鎖」の輪の中にいたと思う。

草食動物も肉食動物に殺されて食べられていた。

当時人間の祖先は狩りをして動物を食べていた。

食人族という部族があり、人間を食べていた人間もいた。

当然食べられた動物は、その前に殺される。

生物は外敵から身を守るために様々な工夫をしている。

擬態などは本当に今でも生態を見ていると見事だ。

皆、食べられないように工夫して生き延びてきたのである。

その連鎖の歴史の中に人間の祖先もいたと考えるのが自然であろう。

ここまで書けば言いたいことはもうお分かりになられるであろうと思うが、殺されるのは皆いやなのだ。

それでも殺される。

食べられる。

その瞬間は「恐怖に怯える」動物もいれば「怒り」を持つ動物もいたかもしれない。

脳が進化して人間の原型が確立されつつあり「意思」を持ち始めている頃、食べられるために他の部族に殺されたかもしれない。

また、自分の子供がさらわれて殺され、食べられたかもしれない。

そうした事に「怒りの感情」を持つ人間の原型があったかもしれない。

そうしながらも人間の歴史は進んでいき、感情の進化もあったであろう。

また、九死に一生を得て生き延びた人もいるかもしれない。

そうした人たちの心には何が残るのか?

こうした繰り返しが数千年数万年とどの位続いたのかは分からないが、その中で生き延びてきた人たちの子孫が我々である。


では、どこの時点から「因果応報」が発生したのだろうか?


どこの時代から文明社会と定義するのかは見る角度によって違うのだろうが、前世で何かしでかした人が今世でその報いを受けるという事を逆に遡っていっても、どこまで遡ればその因果は消えるのか?

カルマが解消できたのでもう生まれ変わる事は無いという考え方はどうなんだろうか?

こうした考え方は、数万年まえから続く人類の歴史という観点からすると、なぜカルマや因果を持つことになってしまったのか?という理由がぼやけている。

精神世界の存在として、その昔は人々の心の拠り所であったり、人々を良い方向へ導いて社会をいい方向へ向かせるという指針的な役割もあったと思う。

それは「善と悪」という大局の分離があるために起こる考え方であろう。

人がなんとなく「いやだ」と思う事、人にされると「いやだ」と思う事。

こうしたことをする人は「悪」と定義する。

この「いやだ」の範囲は相当広い。

雰囲気や言葉遣いのちょっとした事から暴力、更には殺人、戦争と広範囲に広がる。

こうした「いやだ」と思える事があるからこそ、「善」という事が存在する。

幅の広さは様々だが要は「2極化」である。

貧乏だと苦労するから豊かになりたいと思う。

こうした「いやだ」と思える事は人により、また時代により定義は変化してきた。


こうした人や時代によって変化する定義によって生じた不愉快な出来事が生まれ変わって次の人生で報いを受けるというのはどうなのだろうか?

人によっては「言いがかりもいいとこ」という事もあるのではないだろうか?

また勘違い、思い込みもあるだろう。

そうした事象の報復合戦を延々と行っているとしたら、被害は拡大するだけであろう。

その判定はだれが行うのか?

100%納得できる事なのであろうか?

1%でも不満が残れば、それはまた報復へ繋がるのではないだろうか?

では何のために輪廻転生して何度も人間として生きるのか?

こうした疑問へ逆戻りしてしまう。

純粋無垢な状態で初めて人間としてスタートしたとしても、ドロドロに汚れてしまうであろう。

そしてどの泥を何回も生まれ変わりながら落として、落としきったら生まれてこない?

なにやってるの?


話が変な方向へ進んでしまう。

また、「報復」という気持ちを持つという事は物凄い「執着」でもあるだろう。

しかし人間が死んだとき、強烈な「執着」を持っていると、成仏というか生まれ変わる事が出来ずに「幽霊」「怨霊」として人間界に漂ってしまうとも言われている。

ここも話が矛盾してしまう。

だから「仏」の心を持って「おだやかに」「成仏」する。

穏やかな心で成仏して、生まれ変わったら「復讐」する?

現代の人間の思考では理解の範囲を超えた何かがあるのか?

また、輪廻転生で生まれ変わるタイミングは人それぞれとも言われている。

復讐の相手が同時期に生まれ変わっているという事も必要となるだろう。


悲惨な事件が発生してしまった時に、きっと前世でひどい事をしたんだろう。。。というと妙に納得してしまったりする。

人は復讐が果たされると、すこしは気が晴れるという心も持ち合わせていると思う。

だから、「こうだったらいいな」と思える気持ちが、妙に納得してしまう感情になるとも考えられる。

今回このブログに書き出してない事柄もいくつも考えてみたのだが、どう考えても「因果応報」はどこかに無理があるように思えてならない。


こうした事象の事を掘り下げていくと、毎回「それは何故?」という根本理由が不明確なのである。

それはこのブログの連載第一弾で完結している。

では何故完結しているのに、またこうして掘り下げているのか?

何か私の心に響いてきたものがあったのでしょう。

もしかしたら誰かがこの答えを探しているのかもしれない。


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