2013年01月23日

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全体意識について考えてみたが、人間との関係がいまいち不明瞭である。

前回の全体意識と人類の関係の仮説では、人類は全体意識からの働きかけで数ある生物の中から進化したように定義してみた。

地球で生まれた生物としての「本能意識」と全体意識からの「霊的意識」によって成り立ち、「本能意識」として持っている部分が「食物連鎖」の中で生き残る為の「激しさ」につながるのでは?

こう考えてみると、スピリチュアルでの「幸せ」の定義と「食物連鎖」の中で生きる人類としての「幸せ」が正反対であるという考えも、つじつまが合うのではないだろうか。

生物としての「本能意識」が「霊的意識」にサポートされて様々な進化発展の中で発達してきた脳の意識、これが「自我」と呼ばれるものではないのか。

この「自我」の欲求を満たすもの、

「豊富な食物」
「子孫繁栄の相手」
「安心して眠れる住居」「安心して子孫を保護できる場所」

これらを手に入れることが出来、所有出来る事、そして奪われない事。

これとは全く別に、「霊的意識」は基本的に肉体の所有者では無く、精神世界だけの意識なので、「自我」の欲求する事柄には全く興味が無い。

だからスピリチュアル的に感じる「幸福感」と人間としての「幸福感」が正反対の事として矛盾の対象になっているのではなかろうか。

これまで「全体意識」というものの存在を様々な人が説明してきているが、どれも納得できる内容ではない。

「全体意識」はどのような「目的」で人類の進化を後押ししてきたのか?

「万年」さんのブログを拝見していて、チャネリングの回答の中に「ただ経験したいだけ」という言葉があった。

「原理原則」の「法則」なのだという言い回しもあった。

この単語の意味することは、人間が考えるような「欲求」から来る「目的」等といったものではなく、淡々と原則に従って「何か」が動いているだけという表現であろう。

人類ではまだ解明できていない物質は数えきれないほどある。

その解明されていない「何か」の影響で人類が進化し、技術的な事柄も原理原則の中に含まれ、それを感じ取った人類が技術として利用している状況と考える事も出来る。

それは原則なので、「感情」は含まれないから、人間の感情から照らしてみれば「非常」と見えるかもしれない。

全体意識というものの捉え方として「原理原則」という考えで、そこに全ての情報が詰まっており、この全体意識と繋がっている人類は様々な情報を引き出すことが出来る。

そして、個別に人類をサポートしている「霊的意識」も同様に全体意識からの情報を引き出す事も出来れば、人類が生きている時に「心から湧き出る感情」が「霊的意識」に伝わり、それが全体意識へ共有される。

人間の感覚で考えると「情報」という考え方で「人間の記憶」が全体意識に蓄積されているとのではないか。

なぜ全体意識に全ての情報が詰まっているのかという事に関しては、どうして宇宙が出来上がったのかという疑問と同じレベルなので、議論のしようがない。


地球上の自然現象を長い年月で観察した現象を見ていると、よく言われるのが「地球は生きている」。

まるで「生物」のように躍動している感覚で見えてくる。

地球表面を見てみると、そこには人類が生活しているが、その様子を見ていると、これもまた生き物のように見えるのは私だけだろうか?

例えば日本の土地の中を縦横無尽に「道路」が張り巡らされ、そこを「車両」が行き来する。

この「車両」には「人」であったり「物資」であったりが運ばれて必要な所へ届けられる。

人間の血管の構造とよく似ていると思う。

交通事故が発生したり、天災等で道路が通れなくなると「物資」が届かないエリアでは困ったことになる。

血管が詰まって「脳梗塞」や「壊死」といった状態によく似ている。

どのような物質でも「電子顕微鏡」のような物で内部を見ていくと、最終的には「陽子」の回りを「電子」が周回軌道を描いて回っている。

宇宙空間と同様の構造である。

こういった似たような構造という物は他にも数えきれないほど存在する。

これらを総合的に眺めていると、「全て同じ原理」で動いているように見えるのだ。

人間として「意思」を持っている状態の我々は「自由意思」という感覚で毎日生きている。

「自由意思」ではあるのだが、周囲の環境もあり自由に動ける範囲は限定される。

水中では呼吸が出来ず肉体を維持することが不可能なので、生存可能なエリアへ戻ることになる。


こういった「原理原則」という考え方で「総合意識」を捉えてみた場合、何かの「目的」があって「どこかへ導かれている」と思えてしまうのは性急な考えで、もっと長い時間で見てみた場合、原則通りになるべくしてなるという捉え方もできる。

人類は言葉というコミュニケーションツールを持っており、そのツールで意思を伝える場合に「時間」という定義をすることにより円滑にコミュニケーションを行ってきた。

人類と地球、宇宙とでは「時間軸」の単位が圧倒的に違うのは今の我々でもわかるだろう。

違う時間軸の相手と会話するのに自分の時間軸での考え方で相手を捉えてしまうと、勘違いが起きてくる。

宇宙の時間軸の流れで考えてみると、それこそ「天文学的」が時間が必要となる。

おおきく回り道をしてきたが、スピリチュアルという考え方(宗教でもニューエイジでも構わない)は、結論を急いでは見誤ると思っていた方がいいように思われる。

いやいや、それでは人類の今の「人生の問題」には間に合わないというのが現実的な所であろう。

私自身もこの部分には相当悩まされているというのが実情なのであるが、それでも自分なりの結論には近づいているように思われる。

その一つが、この「全体意識」は「原理原則」であり、何か「明確な意思」を人類に与えようとしているとは考えにくい。

この表現が誤解を発生させると思うので、もう少し詳細に書いてみる。

原理原則の影響は確実にあるとは思うのだが、人類の時間軸で考えるような性急な影響では無く、それこそ天文学的な時間が経過してその影響を受けると思う。

人間は「滅亡論」等がなぜか好きであり、この心理を突く映画等も多い。

そして太古の昔から人々に伝わってきた「神の救済」という言葉。

絶対的な力を持った神が困った人々を助けてくれるという考え。

人類にとって「神」はいてほしい存在なのである。

そして何かしてほしいのだ。

食物連鎖の中に生きる人間は常に生存競争にさらされており、理不尽な中に叩き込まれ、「心の安らぎ」が少ないから不満が多いのだ。


ここまで書いてきて、では「霊的意識」に「感情」は無いのか?という疑問があるように感じる人が多いのではないかという思いが出てきた。

人類が進化したのは「霊的意識」に後押しされたからで「後押ししよう」という意思と「この動物に進化させよう」という「選択」があったのではないか?という疑問だ。

選択をしたり、応援をしたりという行為は「意思」ではないか?

ここには自由に考えることが出来るのではないか?という思いだ。

これは次回に探ってみたい。




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