2013年01月14日

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前回、動物の霊は肉体が死んだらどうなるのか、考えてみた。

人間の場合、一般的には古くから肉体が死ぬと「お葬式」を行い、各種宗教の儀式に乗っ取り葬儀を行っている。

お葬式は「生きている人の為に重要」とも言われている。

もし自分が死んだら、、、と考えたとき、皆で集まり故人を忍んで惜しむという葬儀をしてもらえたら例え自分には分からなくとも嬉しいと思えるだろう。

粗雑に扱われては寂しいだろう。


さて、私が親戚の方の葬儀に参列した時に体験した事を書いてみたい。

亡くなった方はまた50代の働き盛りであったが、1か月前までは元気でいたのに体調不良を訴えて入院した時には末期ガンが原因で亡くなってしまった。

家族も親戚もあまりの速さに対応できず戸惑っていた。

そして自宅で通夜と葬儀が行われた。

その時私も親戚として参列し、その方の家の居間に座りお坊さんのお経を聞いていた。

しばらくし、少々睡魔に襲われつつあった時である。

亡くなった親戚の方が、葬儀へ参列している人たち一人一人へ挨拶して回っているではないか!

私を含めて座っている人たちへ順番に回っている姿が見え、その表情はニコニコ笑っている。

まあ、睡魔と闘っている時であったので深くも考えずそのまま時間が経過し、火葬場へ。

荼毘にふされている時間、参列者の方々と話をしていた時、私の弟が「あのおじさんお経をあげている時、みんなの所に挨拶に回っていたね」と言い出した。

これは驚いた!

そこで私は弟に聞いてみた。

「あいさつに回った人の順番って覚えてる?」

弟は「あぁ、覚えてるよ。○○さんから○○さんの所へ行って、、、」と明確に話した。

私が見て覚えている順番と同じなのだ。

これには私もさすがに寝ぼけて夢を見たと片付ける訳にはいかなくなった。

どう説明すればいいのであろう?

同時刻に同じ映像を見ているのだ。

こういった不可解な現象があるから、「霊」という存在を完全に否定出来ない状況となるのだ。

挨拶に回っていたおじさんは笑顔であった。

皆が来てくれた事を喜んでいた様子だったのだ。

どういった感覚であったのだろう。


また、霊感が非常に強く時にはイメージで会話の様な事も出来てしまう方もいた。

その方は、父の葬儀の時、自分が死んだことを認めず否定していたという。

そして1周忌等の時、呼べば来るという。

まるで生きている時と同様に会話をし、意思疎通が出来るという。


こういった能力があると、亡くなった方の遺族が亡くなった方の意思を確認できず相続争いや金庫の暗証番号等役に立つのでは?と思ってしまう。

しかしその方は職業霊能者では無いので、そういった事は行った事が無いという。

警察に協力してみれば迷宮入り事件の解決にもつながるのでは?とも思える。

しかし、理不尽な亡くなり方をされた方とコンタクトを取ると、物凄く体調を崩したり高熱が出たりと大変な目に会うらしい。

だから、そういった方とはコンタクトを取りたくないという。

あまり親しくない方なので、私も深く追求は出来ないがこういった強い霊感で悩みも多いようである。


今回のテーマである「生命」という考え方、人間の肉体が機能しなくなった時「死」という。

「生命が終わる」とも言う。

しかし、これら不可解な現象で感じている「霊」という意識体とでも言おうか、意識があるように思える。

肉体が機能して生きていると感じるのは「意識」であろう。

その意識が存在し、肉体を「意識」し、肉体の「死」を「意識」している。

世界的に大ヒットした「アバター」という映画があるが、ある惑星に生息する生物の肉体を人工的に作り出し、そこへ人間の意識だけを繋いでその惑星の生物と交流するという展開。

この形が、人間の肉体と霊との関係に似ているというか、アバターという表現に変えている映画だ。

こういった形式の映画は結構ある。有名どころでは「マトリックス」もそうだ。


人間の視点では肉体からの視点で見て考える、「霊」としての実感が無いから肉体の視点で考えて肉体の「死」を「終わり」と捉えてしまう。

どれも「前提」が付くようになってきている。

「死」を考えても「肉体の死」という前提が出来る。

「霊」の意識としての感覚を「魂」と呼んでみたりもする。

「魂」に「死」は無いのか?

この事は明確な解答は無い。

スピリチュアルの世界では様々言われており「永遠」とも「消滅する事もある」とも言われており、どちらが正解かは誰にも分からない。


「生命」という定義をどこへ当てはめればよいのか?

「霊」には生命が「無い?」。

これもしっくりこないか、、、

これまでの社会一般では人間の肉体の終わりまでを生命と定義してきた。

時代と主に知識も整頓しながら増加してきて、過去の定義があいまいになってきているようにも感じる。

この定義についてもこれから時代と共に変化していくであろう。


娯楽としてゲーム等をやっている時、ロールプレイングゲームのように画面の中のキャラクターが死なないようにゲームを行うのだが、自分がゲームを行っているという「自覚」が明確にあれば、ゲームとして楽しめるだろう。

もし失敗しても「最初から!」と言ってリセットボタンを押す。

もし、ゲームにのめり込み過ぎて、そのキャラクターに入り込み過ぎてしまったら、また沢山の画面をクリアして最初からやり直すのが大変すぎる状態になってしまったら、物凄く真剣にゲームに取り組むだろう。

一般的に、ゲームではすぐにキャラクターを死なせてしまいうまくいかず面白く無いとか、難しすぎるとか、展開がつまらないとか、どれだけやっても得点が稼げないとか、キャラクターがかわいくないとか不満に思うゲームもあるだろう。

そんな時は、「このゲームや〜めた」となるだろう。


もしも、人間社会はゲームだとして、「霊」と呼ばれるプレーヤーが「キャラクター」として人間を動かしているという「感覚」や「意識」をしっかり持っていたなら?

人間の視点からすると「人生とは苦難の連続」「人生とは修行である」等と思えていたのが「プレイヤー」としての「霊」の視点で見れば「こりゃ難しいゲームだ」という事になるであろう。

そして、つまらなかったり、キャラクターがかわいく無かったり、先が見えず飽きてしまったら「リセット!」と、いつでも出来る事を意識していたら?

人間の視点から見ると「自殺者」が増えたり「行方不明者」が増えることであろう。

スピリチュアルの世界では霊能者の方々は「だから人間に転生してくる時、記憶を消すのだ」と言う。

これはこれで筋は通る。

しかし、ではなぜ霊能者という存在があるのか?

せっかく舞台裏の記憶を消してゲームに参加して、なりきっているのになぜ舞台裏をバラしてしまう?

一部ではこのゲームにおける霊能者の役割はゲームのサポート役だと言っていた。

どうにもゲームが分からなくなった時に、サポートへ連絡するというのだ。

今の現状を見てみよう。

このブログでも書いたように、霊能者にも「偽物」がいると私は思っている。

この偽物はゲームを面白くする「サブキャラクター」なのか?


それにしてもゲームだと舞台裏を暴露するブログが世界中に溢れかえり、「霊界」の知識を持つ人たちの数は増え続けている。

霊界の仕組みについて疑問を持ち、探求している私ももしかしたら舞台裏を暴露する行為に加担しているという見方もある。

ある一定の数の人が「霊界とは」という疑問に答えられるようになった時、何が起こるのか?

このゲームをリセットして、もっと有利な展開でやり直したいと思う人の自殺が一気に増えそうではないだろうか?


この捉え方で「生命」という定義は見直す事が必要なのでは?と思えてしまう私は大丈夫なのだろうか?

スピリチュアルカウンセラーと言う霊能者たちは、人の悩みに対して「ゲームだからそこまで真剣に考える必要は無い」と言う。

それでいて、大地に足を付けた考えも必要と説く。

体験的に薄々「霊」とはこういう物では?と思っている人たちに完全な舞台裏を見破られないようにするために存在しているのが霊能者か?

偽物霊能者も動員して、ほんの少しだけ真実を漏らしながら様々な事を言い、人間界の霊の認識を混乱させる。

もし、この通りだとしたら本当に巧妙に考えられた仕組みだと感心してしまう。


と、ゲームをプレイしながら「ふと思ったり」。




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