2012年12月30日

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「運命の人」という言葉がある。

出会った瞬間にトキメキが走り「もしかしてこの人運命の人?」と思ってしまう事は誰にでもあるだろう。

また、そんな出会いが無く、その出会いを心待ちにしている人もいるだろう。

この出会いに意味づけを行う事も多い事だろう。

守護霊が時機を見て引き合わせてくれると思っている人もいる。

その時の自分の波動と同調した人に出会ったと思っている人もいる。

様々な解釈をしながら、真実は分からないまま、でも出会いは日々繰り返されている。

そして、出会った事を心底喜んでいたが、時間の経過と共に「あれ?」と思い始めている人もいるだろう。

この「出会い」に何かしらの「意図」はあるのだろうか?

人には3つの可能性があると言う。

1.自分が得意と思っている事

2.自分も他人も特技だと認めること

3.自分の想像を超えて「他人が才能を見出す」場合

この3番目の想像もしていなかった事を他人から見いだされた人、このタイプが大成功しているパターンがある。

そして、この3番目のタイプは、人との出会いがきっかけで起こったと言う。

まるで想像もしていなかった事を進められ、自然とその環境が整うように流れていく。

後から考えてみると、まるで全て決まっていたかのように。

こういった流れを回想録として見てみると、まさしく「運命の出会い」があったと思えるのである。

それまでほとんど縁が無かった同級生からの連絡、そして誘われた何かのサークル、そこで結婚相手との出会い。

偶然に思えるような細い糸が繋がり、出会いにつながる。

これは一体何か意味があるのだろうか?

きっと神様が出会わせてくれたのだ、と思ってしまっても無理はない。

もしかしたら本当に「運命の赤い糸」があったのでは?と思えてしまう事だろう。

それとは逆に、出会ってしまったがために「悲惨な人生」になってしまう人もいる。

この出会いとは。。。

何か見えない世界からの「意図」があるのだろうか?

長い間言われ続けてきた事である。

そして解決できないこういった疑問に対して、スピリチュアルの世界では「全て決まっている」という言葉が返ってくる。

以前もこのブログで書いたが「全てが決まっている」という考え方は非常にスピリチュアルの世界では矛盾する。

では、決まっていないとすると、「運命の人」と思える感情はどこから来るのか?

決まっていると「何かしらの意図」があるとすれば理由が知りたくなるのが人の心である。

人はそれぞれ独自の「波動」を持っている。

現在判明しているだけでも人体からは微弱な電波が発せられている。

偶数と奇数のように交わらない波長どうしではお互いに不協和音となり不愉快になる。

ところが、倍音などで割り切れる波長、さらに波長同士で共鳴しあう場合は気持ちが高まる。

居心地がいい場所と座りの悪い場所、これらはその場所の波長と自分の波長の組み合わせと考えることもできる。

人となれば尚更だろう。

人が発した波長と出会ったとき自分の波長が共鳴すれば「トキメキ」が起こるだろう。

しかし人は常に同一の波長を出しているとは限らない。

常に変化しているし、他人の波長に乱されている状態もある。

と、今現時点で人類が知っている科学的な事で説明する事は出来る。

では、この波長、到達範囲はどの位あるのだろう?

それほど広いとは思えない。

しかし、人との出会いは人を介在する。

人から人へ様々な波長が伝搬して、引き合うという現象が起こるという事も考えられる。

こう考えると夢も何も無いつまらない話となってしまう。

この人との出会いの現象について、「見えない存在の意図」と考えると「夢が膨らむ」。

自分以外の「意図」だと考えると、出会わないほうがよかったと思える人と出会ってしまった場合、見えない存在を恨む事につながる。

そして、出会ってよかったと思ったときは「神や守護霊に感謝」し、出会わなかったほうがよかったと思ったときには「そんな人を引き寄せてしまった自分に原因がある」とか言われてしまうと、「そりゃ都合が良すぎないか?」という事になる。

また、「その人と出会う事によって学ばなければならない事があるのだ」とか言われる場合もある。

「カルマ」が原因だと言う場合もあったりする。

こういった矛盾がスピリチュアルには数多く存在する。

で、結局は「自分の解釈だよ」と言われてしまうと、見えない存在の意図など無いという事になる。

自分の解釈という事は「単なる思い込み」と同じことなのだ。

そんな矛盾に満ちた解釈で納得できるのであれば、それはその人にとって問題ない事なのだろう。

私の場合、私の悩みを解決というより、矛盾が気になってしまい、解釈に委ねないで真実に近づいてみたいという所が焦点なのだ。

親と子の関係についても、これも一種の出会いである。

同じ兄弟でも双子でも性格がまるで別人であったり特技や趣味が違っている事は非常に多い。

アメリカのDNAを研究している機関が「完璧な人間などいない」という事がDNAの研究から分かったというニュースがあった。

調べた全てのDNAは必ずどこかに欠陥があったという。

病気のDNAもあるが、一生の間にそのDNAが持っている病気が発病しない事も数多いと言う。

それだけ不完全なDNAなのだが、兄弟でも同じ両親からのDNA情報が同じように受け継がれることはほとんど無いという。

スピリチュアルの世界では、このDNAが持っている情報から性格等が決定し肉体が出来上がるが、そこへ「魂」が重なり、一緒に人生を過ごしていく。

そして「魂」は肉体に入るとき記憶を消されているので、肉体の性格と一緒に成長するという。

こうして人生を生きる中で様々な経験をするのだが、前世で生きた記憶を持っていると肉体が初めて体験する事も感動が無くなる。

だから記憶を消すのだと。

スピリチュアルの考えは常に「魂」が主として理論が展開する。

そして肉体は単なる「魂の乗り物」だと。

ある霊能者は前世で「何度も殺されたし、悲惨な死に方もした」という事を思い出している。

その殺した相手の魂が今入っている肉体の人も分かると言う。

しかし前世の事だからと割り切っている。

こういった考え方が一般的になってしまったら非常に人間社会は恐ろしい世界になってしまうと想像できる。

どんなに悪い事をしても、人を殺しても、自分が死んでもまた人間に転生出来ると思ってしまうだろう。

人生を大切にしようとは思わない人が増えると言うのは容易に想像できる。

また、悲惨な目に会ったりひどい事をしたりした時に背負込む「カルマ」などどうでもいいという話にもなりかねない。

ここでも「カルマ」と「魂」と「転生」そして「修行」等のキーワードが矛盾の海に放り込まれる。

では、「出会い」等にも全く意味は無く、全ては解釈であるという事になってしまう。

また、ある霊能者は「不倫」など罪悪感を持たないでどんんどんやっても構わないとまで言っている。

500年ほど前の日本では自ら「切腹」を行う事を認める社会であり、下級武士の無礼に対して「そこへ直れ、切り捨ててくれる」という名目で座らせて殺す事も正当化されていた。

でもこの時代には「密通」という罪の認識があり、戒律の扱いとなっていた。

その貞操感は下がったとはいう物の、昔も今も「不倫」は人に正当化されない。

芸能人が「不倫は文化だ」と発言すると一斉攻撃を受けた事もあった。

当用漢字の中に「不倫」という漢字熟語は無かったのだが、文化の変化に合わせて追加された言葉だ。

今の時代これだけ一つの命を大切にする文化に変化してきたにもかかわらず「不倫」というのは社会的に認められていない。

密かに行う人は増えたことは事実であろう。

しかし人の観念は違う。

こういった考えは「人はどこへ向かっているのか?」という哲学的な分野へ行ってしまうのでここでは趣旨と外れるので追及はしない。

不倫も実は「出会い」から起こる事である。

子供の保護者会で出会い、入院で出会い、職場で出会い、どんなきっかけでも出会うという事から始まる。

果たしてこの出会い「見えない存在の意図」に導かれている事なのだろうか?

ここにも解釈の仕方は様々ある。

「ソウルメイト」や「運命の人」との出会いなのだが、その出会い方が結果「不倫」であったという事。

お互い独身でそのまま結婚という流れに乗れば「神様の導き」と考える人は多いだろう。

また、今の時代ではあまり無いが「身分の違いで結婚できない出会い」もある。

最近はだんだん市民権を得てきた「男性同士の結婚」という形もあるだろう。

「魂」のレベルで考えると、転生した肉体が「男性」、ソウルメイトも転生した肉体が「男性」こういう解釈もあるだろう。

また、同じ時代に同年代で生まれてきているとも限らない。

人間が死亡し、転生するまでにかかる期間は7〜80年位とスピリチュアルでは言われている。

以前もこのブログで書いたが、生れてすぐ死んだ子供の足の裏に書いた住所と名前が他人の家の子供の足の裏に浮かび上がったという現象で言えば、本当に死んでから転生までの期間は「すぐ」だ。

まあ、生れてすぐ死んでしまった子供の魂は「すぐ生まれ変わるよ」と霊能者が言いそうだが。。。

転生する為にその順番を待つ「行列」を見てきたという人もいる。

肉体が死んだら魂は光に帰っていくという話も聞かれるが、光に帰っても「魂」という塊は「個性」「個別」を保ったままでいるというように聞こえる。

そして転生するが、自分の魂が分離して守護霊に付くとも言われている。

霊界のルールはやはりまだ解明にはほど遠いと考えるのが相当であろう。

よって、出会いに関しても「感謝」の気持ちを持つ事として解釈できていれば今の所いいのではないかと思われる。

人間は「感謝」の気持ちを持っている状態は非常に良い状態と言われている。

自らの解釈、考え方で自らの「心の状態」良い状態に保つと、良い波長を発し、良い人と出会い良い循環が生まれるというのは、経験から実感できる事なので、「見えない存在の意思」という事をあまり意識しすぎない方が、現代ではバランスの取れた状態と言えるのではないだろうか。

考え方をあまり偏らせ過ぎない事が重要であろう。

たまにはのめり込んでみても、戻れる場所を確保している事が大切なのだ。




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(03:07)

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この記事へのコメント

1. Posted by S   2013年01月10日 13:43
Unknown<br>
私も同じ疑問を持っておりました。<br>
幸か不幸か私もチャネリング『らしき』ものを致しますが、疑問をぶつけたところ《敷かれたレールを走る事ほどつまらぬもなはない、要所要所計画はするが、それとて全て実現することは難しいもの。人が肉体を持って生まれるは【経験】したいが為。そこには運命も偶然も必要なし。心動かす出逢いは運命で、取るに足らぬものは偶然か?その逆やもしれぬぞ。計画は計画である、偶然こそ運命であろう。あらゆる経験を与える出逢いに感謝することだ。それが運命か偶然かなど議論は必要であろうか?…》<br>
<br>
<br>
怪しいチャネリングななで眉唾ものですが、<br>
最後の感謝の気持ちを持て、だけは信じたいと思っています(笑)
2. Posted by 四季   2013年01月10日 22:17
Sさん コメントありがとうございます<br>
おぉ、回答してもらえるのですね。<br>
素晴らしいと思います。<br>
<br>
そして回答内容を拝見させて頂いて、また興味深い点がありますね。<br>
<br>
「要所要所計画はするが」<br>
「経験したいが為」<br>
「計画は計画である」<br>
「出会いに感謝」<br>
「議論は必要であろうか」<br>
<br>
非常にこれらの内容に興味が湧きました。<br>
<br>
次回のブログで詳細に掘り下げさせていただきますね。<br>
ありがとうございます。<br>

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