2012年12月15日

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「魂の修行の場」古くからの精神世界ではこう言われていた。

最近のスピリチュアルブームの中ではニュアンスが違っているように思える。

最近のスピリチュアルでは、全ての魂の大元である「源」が自信を分離させ両極を作り出し、それによって起こる様々な出来事を感情を伴い経験するというような感じだ。

勿論これは大方の話であり、全てがこう言っているのではない。

「源」が作り出したバーチャルな世界であり、壮大な「演劇」であるという。

演劇には出演者がいて、その舞台を見るという参加者もいる。

出演者は常に出演者ではなく、客が今度は出演者にもなる。

それぞれ存在する人間はその人を主演とした舞台があり、そこでは主役だという。

一般的に人間社会でも分かりやすくウケるのが「善」と「悪」との戦いだろう。

恋愛ものもウケがいい。

人は演劇を見るのが結構好きではないだろうか?

劇場で直接見る、テレビで見る、映画で見る、DVD等で見る、小説で読む、マンガで見る、ニュースで見る、図書館の記録で見る、遺跡で見る、様々な形式の舞台が世界中で展開されている。

他の人の舞台が見たいのだ。

そこには悪役も登場する。

人がストーリーを考えて展開する舞台と、人が実際に展開する事実と大まか2つの分類があると思う。

悪役は悪役としてフィクションでもノンフィクションでも凄い事をやってのける。

今回のテーマである「この世は魂を磨く場」という視点で考えてみると、悪役を演じる人はフィクションなら役者、ノンフィクションなら犯罪者、こんな分類を人は行う。

そして、ノンフィクションの悪役の人は「魂を磨く」等考えているのだろうか?

という考えに行ってしまうと思う。

フィクションでの悪役の人は舞台を降りればもう普通の人。

舞台の上でだけ「悪役」だ。

では、人間界という舞台で悪役を演じていた人は霊界へ戻れば普通の霊?

人間界と霊界という分離は肉体という存在が「ある」か「ない」かという所に境界線を引いている。

霊界から人間界へ入ってくる時には「霊界での記憶」を封印し、人の状態では思い出せない仕組みになっているという。

古くからの精神世界で言われているこの魂を磨くという観点では、どこの視点から見て魂を磨くのだろうか?

古くからの精神世界で言われている事は、神の使い等の人は人間界の最下層でボロを着ている状態に置かれると言う。

この考えというか話は腑に落ちない。

人間界でランク付けするわけではないが、様々なカテゴリーがある。

指導者として重圧と戦う人、とんでもない資産を持つ人、脚光を浴びる人、大きなカテゴリーで分類できるが、これを一般人と言われる人に置き換えても小さな会社の社長であったり、その会社の投資家であったり、広報として全面に出ていく人であったり、開発や営業成績で表彰される人であったりと規模の大小の差はあるにしても似たような構造だろう。

その様々なカテゴリーの中で、神の使いという人は最下層の人?

人間界での最下層の人?

それがどのような意味を持つのか私には理解できない。

素晴らしい精神論を展開するボロを着た人。

これは、映画等でもよく出てくるシチュエーションだ。

ボロボロの爺さんと内面が光るという大きなギャップが面白い。

資産家が大豪邸に住んでいて、素晴らしい精神論を人に伝えるというパターンは見たことが無い:笑

人は見た目で結構判断している。

普通のサラリーマンが、スーツ姿で素晴らしい精神論を展開し、苦しんでいる人を救い出す?

これも想像しにくい。

とするとボロを着た爺さんというイメージに辿り着くのか?

最近のスピリチュアルの人は何故か着物を着ている人が目に留まる。

なぜ着物なのか?

お坊さんのイメージと日本古来の着物、何かイメージがどこかに存在しているのだろうか。

また、お笑いの様なステージを展開している人も最近は多いように思える。

ライブのお知らせと言うものだ。

私のように中年層ではライブというとバンドというイメージしかないが、最近ではトークライブと呼ばれているようだ。

時代に即して、伝達方法も変化してきているのだろう。

これら伝える手段は様々なのだが、最近のスピリチュアルで言われている事には「魂を磨く」という内容の物が見当たらない。

やはり舞台だからという。

では古くからの精神世界はと言うと、苦しんで苦しんで我慢して耐えてこそ新境地が見えてくる。

地位や資産、名誉等という物はあの世へ持っていけない。最終的には心だ!という展開だ。

更に、悟りの境地へ近づくと心すらも「無」となり、結局は何もないのだという。

この辺りの内容は、表現の仕方で読まれている人の受け取り方が変化するので異論反論があるだろう。

そこで議論しても私の今までの経験では求めている「腑に落ちる」答えへの到達は無い。

どれだけ様々な方と議論した事か。。。

徹夜で議論したこともある。

大きな宗教団体の方が、支部長と呼ばれる人を連れてきて何時間も議論した。

結局同じである。

世の中で言われている事柄、書籍で出版されている、その他様々な方法で伝達されてくる内容の辻褄が合わないのだ。

まあ、だからこうしてまだ今度はブログで疑問を解析しているのだが。。。

確かに古くから言われている「魂を磨く」という考え方は、人間社会をルールに基づいて正常に運営する為には、各自の「正しい心」と言われている部分が重要なのだが、そうでない人もいるためにルールが必要となる。

誰もが思いやりを持ち、人の嫌がることをせず暮らしていれば今のように厳格で難しい法律など不要なのだ。

そういった誘惑や悪事を働く人という存在が「ある」と認識しているからこそ「そうはならないように」心を磨く事が重要なのだという展開は分かる。

書いていて今ふと思ったのが、こういう古くからの考えと新しい考え等矛盾するような考え方が存在しているのも、舞台の味付けなのだろうか?

これら解析できない事柄の迷宮の中でもがく人がいれば、そんなの関係ないとまるで気にしない人もいる。

このスピリチュアルの疑問というブログは、新旧精神世界での内容の違いでどちらが正しいのかと追及する事ではない。

魂を磨くというテーマで人々が暮らすと、ひどい目に会ってしまった人の心を救済したいと思うパターンでは、その当事者の心に届きやすいかもしれない。

しかし大多数の人が普通に暮らしているのに、どうして自分だけがこんなひどい目に会わなければならないのか?という問いに対して、納得のいく回答を用意できるのだろうか?

「越えられないハードルは無い」という言葉があるが、神様が。。。とか自分で決めた。。。とか様々な言われ方をしているが、根本的になぜ?という問いに対しての「腑に落ちる」とか「納得できる」回答はあまりないように思える。

当事者が一時的にその言葉で落ち着きを取り戻し、復活していけばそれでいいのかもしれない。

しかし私はその言われている言葉に疑問が湧いてきてしまうのだ。

どうしても腑に落ちない。

理不尽な事(ストレス)があるから、それを回避したり戦ったりという事態が発生する。

ストレスが無いとどうなるのか?

ストレスって何?という状態。

人間社会でストレスが無ければ、目が覚めた時間に起きてきて、そこに食事がある。何かしなければならない義務はなく、好きに過ごす。

物凄く凝縮して書くとこの様な感じだろう。

随分前だが、アメリカでのある実験で100名の人に実験台となってもらい、50名ずつの2グループに分けて実験スタート。

片方は毎朝6時起床、布団をたたんで掃除をして、体操をしと時間で区切って規則正しく過ごす。(刑務所みたいな感じ)

もう片方は全てにおいて自由、ゲーム等も用意され、指定エリアから出なければ何をしてもかまわない。

そしてある一定時間経過したのちどうなったか?

規則正しいチームは、実験スタート前と同じ状態。

自由チームは何もしない、ゲームも最初は盛り上がっていたが、ほぼすべての人50名は1日中寝ているという猫のような生活になってしまったという。

時間で区切るというストレス、掃除をしたい人はいいだろうが、したくない人も集団で行うというルール(ストレス)で縛られ、掃除を行う。

習慣となり、周囲で見ている人がいる、自分は見られていると思うと普通にルールを守れるようになる。

結局ストレスが無いと自己を保つのはなかなか難しいという事がわかった実験であった。

人間という意思はストレスが無いと向上心というものが芽生えにくい。

ストレスを感じるとそれに対応できる。

こういったある程度強制的な環境を作り上げて、その中に置いてあげると自己を磨くという事を実行できる生き物という事がわかる。

一方スピリチュアルで言われている、人生は役者として舞台を楽しむという考え。

例え殺されてもそれは魂として役の一部だから気にするな、という。

しかし、毎日のように悲惨なニュースがある。

その被害者となってしまった人にこの考え方は届くのだろうか?

被害者に魂を磨くための「試練」だ!と言えるのだろうか?

新しいスピリチュアルで、これは舞台であり役の一部なのだから気にしなくても大丈夫というようなニュアンスを教えられると、真剣に人生を生きることをやめてしまう人もいるのではないか?(こう書くとスピリチュアルの人がそんな言い方はしていないと言うだろうが、そう聞こえてしまえば、そう言っているのと同じ事であるのでは?)

悪い事は重なる、家族が事故にあい、会社が潰れ、借金で追い回され、家族の治療費を払えない処へきて、電車の中で「痴漢」と間違われ、冤罪で逮捕されるなど、こんなに続いたらさすがに心が折れるだろうが、いかがだろうか?

「役」だからと思って真剣に演じるよ、という人もいればこんな「役」いやだと言って舞台を降りてしまうかもしれない。

結局、冤罪を晴らしてくれて、家族の治療費を用立ててくれ、借金の処理を手伝ってくれる人がいれば持ち直す事はできるのではないだろうか?

精神世界で試練だとか役だとか言っていられるのは、今が非常時で無い状態で、でも結構ストレスがある状態なのではないかな?

魂を磨くという意味を考えただけでも、これだけ書くことが出来た。

まだまだ書き足りないが、同じような内容になるのでここまで減らせたが、役という考え方もまだ数多くの矛盾があり、今の時代で「役」だと言い続ける事は果たしてどうなんだろうか?

私はまだ結論を出せないので、様々な角度から考えている。

結局全ては「生きる意味」に集約されてくるのだろう。




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